Ads by Google

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

善も悪も馴染めないきみに

Bush's farewell speech
http://edition.cnn.com/2009/POLITICS/01/15/
bush.speech.text/index.html#cnnSTCVideo

13分間全部観て聴いてみた。
ブッシュがすごくいい人に見える。実際良い人なんだろう。
彼が親戚のおじさんだったら、お盆とお正月が楽しみに違いない。

"I have often spoken to you about good and evil, and this has made some uncomfortable. But good and evil are present in this world and between the two, there can be no compromise. Murdering the innocent to advance an ideology is wrong every time, everywhere."

9・11後の演説に匹敵するまではいかないけど、今回のもなかなかの演説だったと思う。




世界はみんなオバマ待ち。

オバマになれば、日本経済も良くなるに違いない。
そんなレベルの期待までもが世界には渦巻いている。

盛り上がった選挙戦、"Change"、高い支持率、根拠のない期待感。
すべてが、近い将来の「失望」への伏線な気がしてくる。

アラブ諸国はかなりオバマに好意的な期待を持ってるらしいけど、
よくよく考えてみればオバマはムスリムの息子で改宗した、いわば「棄教者」。
(父親がムスリムなら息子もムスリムになる。そして棄教はイスラームではご法度。)
それに気づきながらもブッシュとの落差で期待せざるを得ない状況は理解できる。
ただ、その期待はすぐに失望へ変わり得るわけで、その失望が私には怖い。


実際のオバマの政策は、別に"War on Terror"をやめるわけでもないし、
親イスラエルでなくなるわけでもないし、ホワイトハウスで犬をやめて猫を飼うわけでもない。

過剰な期待は過剰な失望を招く。
過剰な期待をするのは仕方ないかもしれない。
過剰な失望をしたとき、私たちは私たちの期待が過剰だったことに気づけるか。
気づけなければ、そのときがオバマにとって正念場になるんだろう。

そして私たちは、きっと気づけない。

さあ、オバマ大統領の誕生である。

---------------------------------

なんとなく、書いてみたかった。

ばいばいブッシュ。

裁判員制度

そもそも、この制度を「導入しよう」と言い出したのは誰なのか。
それがわからないのである。
「導入しよう」と言い出した以上は、その人たちにとっては、制度の導入によって何らかの利益が見込めると思ったはずである。
何の利益か。
それがわからない。
法務省にとって、この制度の導入はどんな利益があるのか。
最高裁のHPにはこう書いてある。
「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。」
なんということもない文言であるが、こういうことを最高裁が言い出すということは言い換えれば、「裁判が身近ではなく、わかりにくく、司法に対する国民のみなさんの信頼が低下している」ということが前段になければならない。
論理的にはそうである。
現に裁判が身近でわかりやすく、国民の司法への信頼が篤ければ、司法制度をいじる必要はないからである。
だから、前件としては「司法制度はうまく機能していない」ということになる。
でも、そういうことをふつう司法制度の当事者が言いますか?
言わないでしょ。
ぜったい。
メディアがいうなら、わかる。
政治家が言うのなら、わかる。
日弁連が言うのでも、わかる。
でも、誰も文句を言わないのに、裁判官が自分から「裁判制度は早急になんとかせないかんです」と言い出すということはありえない。
百歩譲ってあったとしても、その場合裁判を「身近でわかりやすいもの」にし、司法への信頼を回復する方法はいくらでもある。
司法制度への国民的理解を深めたいとほんとうに思うなら、いちばん簡単なのは「法律学」を中学の社会科の必修にすることである。
いまだって「公民」という科目があるのだ。その半分くらいを法律学と法社会学と法制史と司法制度の解説に割けば、国民の司法への理解は飛躍的に高まるであろう。
学習指導要領を書き換えるだけなんだから。
そういう「簡単な方法」が他にもあるにもかかわらず、裁判官たちが自分の職域に「素人」を招き入れて、彼らに裁判権を分割することで司法制度が改善されるというアイディアを提唱するということは考えられない。
例えば、教育制度はうまくいっていない。
いうときに、生徒たちを教壇に呼び寄せて、いっしょに授業をやってもらうという代案を思いつく教師はいない。
医療制度もうまくいっていない。
そういうときに、患者たちを診察室へ呼び入れて、いっしょに医療行為をしてもらうという代案を思いつく医者はいない。
当たり前だが、それらの仕事は専門的知見と経験を必要とするからである。
シロートに着流しで現場を歩き回られては困る。
裁判官だけが違う考え方をしたということを私は信じない。
日本中の裁判官はこの司法制度の改革に反対しているはずである。
意見を公開する機会が提供されていないので、黙っているが、内心ずいぶん怒っているはずである。
と思う。
だから、この制度改革が裁判所主導で進められたということは考えにくい。
では、誰が主導したのか?
裁判の厳罰化を求める勢力がこの制度改革を支持したという可能性はある。
裁判員制度の導入で間違いなく「メディアの論調」は司法判断に反映するようになる。
ただ、かかわるのは刑事事件だけであるから、国が被告であるところの公害訴訟とか、そういうところには市民感情は反映しない。
するのは殺人事件などの凶悪事件だけである。
凶悪事件については、あきらかに司法と市民感情のあいだには齟齬がある。市民感情は刑法条文や判例とかかわりなく「厳罰」を望む傾向があるからである。
裁判員制度の導入は「厳罰化」による秩序と倫理の回復を求める政治家や知識人が支持したのかも知れない。
しかし、殺人事件の審理に参加した市民裁判員は、テレビに向かっているときには「そんなやつは死刑にしちゃえばいいんだよ」と気楽にコメントしていたとしても、自己責任で死刑に一票を投じることには少なからぬ心理的抵抗を感じるはずである。
裁判官なら職業的覚悟にもとづいて死刑判決を下せるだろうが、一般市民はそのような心理的訓練を受けていない。
裁判官だけで下した判決であれば死刑になっていた判決が、裁判員を入れたために懲役刑に減刑されるケースが出てくる可能性は高いと私は思う。
もし「厳罰化」を求めて裁判員制度を導入したのだとしたら、そのもくろみははずれるだろうと私は思う。
有期刑の量刑はどうなるかわからないが、死刑判決は激減するはずである。
それより、私がいちばん懸念しているのは、裁判員になった市民たちがこうむるトラウマの影響が過小評価されていることである。
殺人事件について、私たちがメディア経由で知らされるのは、その全貌のほんの一部にすぎない。
けれど、裁判員は調書を閲覧するときに、そのありのままを見せられる。
それは「人間がどれほど邪悪で残忍で非理性的になりうるか」ということをまぢかに知ることである。
そのようなものに心理的成熟にばらつきのある市民たちが組織的にさらされることについてはどう考えているのだろう。
事件の内容だけでなく、評議の過程で、裁判官や他の裁判員たちの態度にショックを受けるということも考えられるが、裁判員たちはこれらのことについては生涯にわたる守秘義務を課されている。
職務上知り得た秘密を漏洩した場合には6ヶ月以下の懲役または50万円以下の罰金に処される。
裁判員に選任されたことによって重篤なPTSDに罹患する市民が出た場合、彼らは「職業上知り得た秘密」を医師やカウンセラーには話してもよいのか、それさえも禁じられているのか、そのあたりのことは事前に明らかにしておいた方がいいような気がするけど。

深い

人に傷つけば人に寄り添い癒すべし 
海はひたすら打ち返す波 
  
道浦母都子

DEAD MAN WALKING

Deadmans Walking

めでたい気分で正月を迎えている私。テレビの向こう、生放送で盛り上がるかくし芸大会。空爆で苦しむ人々。拘置所で眠る死刑囚。

どれも、同じこの世界。
それらがみんな地続きになって、私の目の前に広がっている。押し寄せてくる。


元旦から『DEAD MAN WALKING』を観た。ご覧になったらわかるが、新年にはちょっとふさわしくない映画である。

が、一年の計は元旦にあり。



以下、感想。

単純な死刑反対映画かと思ったらそうでもない。死が迫る死刑囚に寄り添う教誨師の視点から始まり
、死刑囚、被害者遺族、死刑囚の家族と、多様な視点から描かれた良作と言っていい。2時間があっという間に過ぎた。

面白いのは、被害者遺族の多様性も描いたことである。「家族が殺された」という事実からそれをどう受けとめるかは人によって様々である。

遺族として肉親を奪われた怒りや悲しみはどうやっても消せない。犯人を厳罰に処して欲しいという感情も決して消えることはないだろう。

誰かの幸せを奪う権利は誰にもない。私にもない。あなたにもない。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、その意味するところは非常に深い。自らの罪を本心から認めたとき、罪と人は別の存在となり、この言葉が妥当するのだろう。しかし、人が人を裁く限界として、そのことを常に確実に判定することはできず、そのような中で、死刑制度は本当に機能しうるのか。死刑制度の是非・あり方についても、重い疑問を提起している。

賛成か反対か。主人公の視点は「死刑反対」であったと思うが、この映画では明確に結論を出さなかったのだと思う。「単純に存廃は語れない」という、制度としての事実を改めて目の当たりにした。

議論が必要だと、映画は示してくれたように思う。

海のようにいつまでも

私がだれかを傷つけるとき
苦しむのはこの私
あなたが誰かを苦しめるとき
傷つくのはそのあなた
苦しみも傷もついてくる
影のようにどこまでも

私が誰かを喜ばすとき幸せなのはこの私
あなたが誰かを幸せにするとき
喜ぶのはそのあなた

幸せと喜びは歌っている海のようにいつまでも

谷川俊太郎



私の人生の格言である。


さぁ、明けましておめでとうございます。

昨年は、「変」という文字に表れたように、色々モヤっとした一年でした。
今年をどう変えるかは自分次第。

しっかり足下を固めて目線は常に先を見て行動できるよう、まずは目の前の卒論を仕上げましょう。

 

Template Designed by めもらんだむ RSS
special thanks: Sky Ruins DW99 : aqua_3cpl Customized Version】